イカロスの翼
神話に登場するイカロスは、高望みの代名詞。
青い空に焦がれて、蝋で作った翼を背負った。
その願いが届くわけがないのに。
途方もない憧れの代償は彼の命。
太陽の光に罰せられた彼は、落下の瞬間に何を思っただろう。夢が叶うのと同時に塵になれたのだとしたら。
イカロスは誰よりも幸福な人間だったのかもしれない。
「日曜は駄目?何で」
「・・・ちょっと」
サクラは罰が悪そうに視線をそらす。
近頃のサクラはいつもこうだ。
誰か他に気になる男ができたのかと思ったが、そうした雰囲気でもない。
悪い虫は徹底的に排除しているから、当然だけど。「カカシ先生なら、大丈夫かな」
俺の無言の圧力に負けたのか、サクラは躊躇いながらも打ち明ける。
アカデミーの校舎裏に隠した猫のことを。
数日前、サクラは道端で身重の母猫を見つけた。
『拾ってください』の無責任なメッセージの書かれた段ボール箱と共に。
サクラの父は猫アレルギーで生き物を飼うことは厳禁だ。
サクラは動物好きの知人に声をかけたが、猫の世話をしてくれる人間はいなかった。「でも、子猫が生まれちゃえば、その可愛さで欲しいって人が出てくると思うの。だからそれまでは私が面倒を見ようと思って」
猫の居場所まで案内したサクラは、慈愛に満ちた眼差しを母猫に向けている。
母猫はサクラの用意した毛布に包まってすやすやと眠っていた。
ここならば滅多に人が来ることはなく、屋根があるから雨風もしのげる。
だが、アカデミーは学び舎であって、動物を飼うところではない。
「猫をこの場所に隠していることは秘密なの。カカシ先生も誰にも言わないで」
口元人差し指を当て、沈黙を促すサクラに俺は確かに頷いた。
母猫の出産の時期は近い。
サクラは毎日毎日、猫に会いにアカデミーに通う。
時間を惜しんで、母猫の様子を見に行く。
サクラは優しい子だ。
悲しみとは、なるべく無縁の子供でいて欲しかったのに。
残酷な現実は容赦なく訪れた。
俺を連れて校舎裏にやってきたサクラは、その光景を見るなり気を失った。
母猫のいた場所には、血まみれの毛布と、小さな肉片。
野犬か野狐に襲われたのだと一目で分かる。
そして、身重の母猫に彼らに対抗できる力はない。
サクラが目覚める前に俺はその痕跡を綺麗に消した。
彼女がどんなに自分を責めるかは、十分すぎるほど分かっていたから。「・・・カカシ先生」
案の定、意識を取り戻したサクラの瞳からは、ぼろぼろと涙が零れ落ちる。
「私が、こんなところに連れてきたから・・・・」
「サクラは悪くないよ」サクラの耳に囁いたことは真実だ。
サクラが拾い上げなければ、母猫はもっと前にのたれ死んでいた。
多少の延命が猫にとって幸いだったかどうか、知る由もないけれど。そっと肩に触れると、サクラはそのまま俺の胸に飛び込んできた。
サクラの嗚咽が止まるまで、彼女の体を抱きしめる。
俺には、それくらいしかできない。
彼女の心が壊れないように、何からも守ってあげたいと切に思う。
「俺はこれから仕事が入っているから送って行けないけど、一人で帰れるか?」
俺の問いかけに、サクラはゆっくりと頷く。
「ごめんね」
伏目がちに呟いたサクラの言葉は、猫に対するものか、俺に面倒をかけたという謝罪なのか。
見えない表情から察することはできない。
暫くすると、涙のひいた目元にハンカチ当てながらサクラは帰っていった。
「優しいんですね」
俺達のあとをつけ、その行動を盗み見していた中忍は、サクラがいなくなるとすぐに姿を現した。
自分が彼の気配を察知していたことは、向こうも承知の上だ。
「いいんですか、あんなに甘やかして。忍びの世界では死なんて日常茶飯事ですよ」
「いいんだよ、サクラは。俺がいただくから」
振り向いた先にいたイルカ先生に、俺は晴れやかに笑ってみせる。
「毒のあるこの世界に浸るその前に、あの子は寿退職だ」あくまで朗らかに返事をする俺に対し、イルカ先生は忌々しげに顔を歪ませた。
こんなにあからさまに挑発にのるなんて、まるで三流だ。
もっといじめたくなってしまうから困る。
「あなた、知っていたんじゃないですか。このあたりで物騒な獣がうろついていることを」
「うん。だってここ、演習場の森の近くだもん」俺が笑いながら答えると、イルカ先生は不快げに眉を寄せて踵を返した。
その後姿に、俺は笑顔のままで小さく手を振る。
何かとサクラを気にかけているイルカ先生。
彼がサクラに内緒で、猫の里親を探していることも俺は知っていた。
サクラが声をかけたという動物好きの知り合いの中には、イルカ先生も入っていたのだろう。
サクラを喜ばせるための彼の努力は、肝心の猫の死で徒労に終わった。中忍という中途半端な地位にいるだけあって、イルカ先生もまだまだ考えが甘い。
仮にも忍びのサクラが極力目立たない場所に隠した猫を、野犬が見つけるはずがないじゃないか。
俺が犬をけしかけさえしなければ。
サクラの涙なんか見たくなかったのに。「俺の他に夢中になるものなんて作るから、いけないんだよ。サクラ」
ナルトとサスケも、俺と同じ闇を抱えている。
孤独という名前の果てしない深淵。
7班の下忍達の中で唯一、健やかな精神を持つサクラはずっと近寄りがたい存在だった。
彼女の周りは、それだけで空気が浄化される気がする。
でも、一緒にいれば、真っ黒な俺のことも綺麗にしてくれるかもしれないと思った。サクラは俺を照らす光そのもの。
何事にも真っ直ぐで一生懸命な彼女のそばは、ひどく居心地が悪くて。
何故か離れがたい。
他の誰かのものになるなんて、考えられなかった。
分不相応な想いを抱いたイカロス。
ただ、光の近くにあることを望んだだけ。
彼の罪は、死で償わなければならないほど、大きかっただろうか。俺がイカロスだったら、きっと太陽も道連れにして地の底に引きずり落としていただろうに。
あとがき??
イカロスの話は有名なギリシヤ神話。
イカロスくんの翼を作ったのは彼の父で、翼もラビリンスからの脱出のためというのが真実。
でも、彼は父の言いつけを破って高く飛びすぎてしまったのです。
蝋で作られた翼は太陽に近づくにつれ溶け出し、彼は海に落下して命を落とします。
確かに、自由に空を飛べたらすべてを忘れるほどの開放感かもしれない。
イカロスくんは、果たして最後の一瞬を後悔していたのかな。暗い話ですみません。