英雄の条件 2
通常ではありえない力を得て、慢心していたのだと思う。
不可能なことなどないと。
これは、弱い自分への罰だ。
薄暗い個室の隅に、ネオはひざを抱えて座っている。
検査、検査の毎日で体は疲れ果てていた。
そうして、死んでしまったクルーの恋人が流した涙が、瞼に焼き付いて離れない。
救世主などと呼ばれているのに、志を同じくする仲間の一人さえ助けることがなきなかった。
肩にかけた毛布を握るとネオは硬く目を閉じる。もう誰も失いたくない。
血に頬をぬらしたトリニティーの顔を見たとき、そう思った。
仮想現実への進入を拒むのは、恐怖のためだ。
戦うことではなく、大切な人を失ってしまうことへの。
「ネオ」
囁くような声に反応して、ネオは顔を上げる。
扉の隙間から覗いているのは、彼が最も会いたいと願う人だった。
「トリ・・・・」
反射的に名を呼ぼうとしたネオだが、彼女が唇に指を当て、沈黙を促していることに気づくと口をつぐむ。
首尾良く部屋に侵入すると、扉は極力音を立てないようゆっくりと閉じられた。長いようで短い時間、ネオを見つめていたトリニティーは少しだけ口端を緩める。
会いたいと思っていたはずなのに、顔を見ると何も言えない。
だから、今、必要なことだけを口に出した。「ここから脱出するわ」
彼女の思いがけない一言に、ネオは息を呑む。
「何?」
「リンクと仲間が衛兵を引き付けてくれているの。だから、今のうちに・・・」
「逃げるって、どこへ」
途方に暮れたように呟いたネオに、トリニティーは体を強張らせる。
感情のままに動いている彼女よりも、ネオはずっと現状を理解していた。
「どうやっても、ザイオンの外へは出ることができない。そして、俺を連れて逃げれば君達全員が罪を負うことになる。俺はそんなのは嫌だから」
「でも、明日にもあなたは記憶を消されてしまうのよ!」
トリニティーはつい声を荒げてネオの言葉を遮る。
だけれど、ネオの表情のさした変化は見られず、むしろ全てを受け入れる覚悟がはっきりと見て取れた。
その意味することに、トリニティーは顔色を失う。「・・・・知って、いたの?」
「見張りの一人が話していたのを聞いた。俺だって記憶を失いたくはないけれど、もう決まったことなんだ」
教え諭すように話しかけるネオは、トリニティーを見つめて柔らかく微笑んだ。
「最後に君に会えて良かった」
ネオの口からもれた「最後」の言葉に、トリニティーは慄然とした。
救世主という立場のためだけにネオは生かされ、また彼もそれを受け止めている。
ネオの言うことはきっと正しい。
それでも、今のトリニティーにとっては人類全ての命と彼の存在は天秤にかけられるものではなかった。「トリニティー!?」
無理矢理自分の腕を引っ張って歩き出したトリニティーに、ネオは驚きの声をあげる。
「駄目だ、みんなに迷惑をかけてしまう。今の俺のことは誰もいらないんだ」
「あなたが好きなの」
振り向いたトリニティーの瞳には、みるみるうちに大粒の涙が浮かぶ。
戸惑うネオを気にすることなくトリニティーは必死に彼の体に縋り付いた。
「あなたが誰であっても、失いたくないの。ずっと、そばにいたいの。どこにもいかないで」
切れ切れになるトリニティーの声に、ネオはこのとき初めて彼女の服に滲んだおびただしい量の血に気づいた。
撃たれたときの傷が、そう簡単に癒えるはずがない。
おそらく、気力だけで何とか動いている状態なのだろう。「トリニティー、怪我が・・・・」
「守ってあげられなくて、ごめんなさい」
緊張の糸が切れたのか、トリニティーはがっくりとひざを突く。
そのまま子供のように啜り泣きを続けるトリニティーをネオは静かに抱き寄せる。
彼女に生きて欲しいからこそ、運命を受け入れようと思った。
出会えなければ、これほど人を愛せるということを知らないで過ごしていたかもしれない。
「有難う」
目覚めたトリニティーがいたのは、医療器具の揃った消毒液の匂いがする部屋。
サイドテーブルにある日付入りの時計は、トリニティーが倒れてから二日ほど経っていることを示している。
ネオの手術は、とっくに終わっているはずだ。
腹に巻かれた包帯を一瞥したトリニティーは、近くにあった外套を羽織る。
記憶を消されたネオのはずなのに、心が空っぽになったような気がした。
ただ、最後に聞いたネオの「有難う」の囁きだけがリフレインしている。おそらく、医務室であるその部屋を出ると、人は誰もいなかった。
深夜、こうして居住地区を歩いているのはよほどの物好きか、夜勤帰りの者だ。
トリニティーが無意識のうちに向かっていたのは、ザイオンにいる間の住居としてネオと彼女に与えられた部屋。
その場所で過ごした時間が僅かだが、確かに二人だけの安らぎの空間だった。
期待はしなかったといはいえ、ノックをしても住人の返事はない。
トリニティーが扉を押すとそれは易々と開いたが、中には確かに人の気配がした。
仄かに室内を照らす灯りに目を凝らすと、それはトリニティーの見知った人物ばかりだった。
ネブカドネザル号の船長であるモーフィアスに、クルーのリンク、その恋人であるジー、そして、つい先日まで“ネオ”と呼ばれていた人。
深酒をしたらしく、彼らは皆、そこかしこに転がって寝息を立てている。
足音を忍ばせて辺りを窺うと、トリニティーは“ネオ”の前でしゃがみ込んだ。彼がこうして見張りつきの営倉から出ているということは、手術が無事に終わり戦える体に戻ったということだ。
また、ネブカドネザル号に乗ることになったから、歓迎会のまねごとをしていたのかもしれない。
それなれば、自分はこれからどうすればいいのだろう。
思案するトリニティーは困ったように目線を下げる。
記憶の初期化を終えたネオと、「はじめまして」の挨拶を泣かずに出来る自信はなかった。
「ネオ」
寝顔を見つめ、声にするだけで涙が出そうになるその名前を口にする。
その瞬間、微かに動いた瞼に、トリニティーは思わず立ち上がった。
完全に開かれた眼は、逃げ出したい衝動を堪えるトリニティーをしっかりと見据える。
そこに感情らしきものはなく、ひどく曖昧な眼差しだった。とっさに踵を返そうとした手を、強い力で引っ張られる。
肩を震わせる彼女の目に映ったのは、穏やかに微笑むネオの姿。「無理をしたらまた倒れるよ、トリニティー」
傷を完治させたトリニティーとネオがネブカドネザル号に戻ったのは事故から丁度2ヶ月後のことだった。
新たなクルーを補充することなく、仲間の帰りを待っていたモーフィアスは満足げに頷いて彼らの乗船を見守る。
船橋へと戻ると、リンクはモーフィアスを頼もしげに見つめていた。「俺は、あなたがあそこまでやってくれるとは思っていませんでした」
「減俸になったがな」
苦笑したモーフィアスは首を振りながら応える。
「大切なのは救世主がこの世に存在するということ。記憶がなくても、それは変わらないと思っていた」
「・・・モーフィアス」
「でも、ネオのために必死になるお前達を見ていたら私も動かずにいられなかったんだ」
ネオの手術の前夜、モーフィアスが仲間と共に評議会の議員の一人を拉致拘束したことは、前代未聞の事件だった。
本来ならば、「減俸」ですむことではない。
だが、モーフィアスの呼び掛けに決起し、ネオの記憶の初期化に反対するものがザイオンの住人の過半数を超えたとあっては、議会も善処しないわけにはいかなくなった。
一年以上は無理でも、2ヶ月の休養。
皆の協力で勝ち得た休みによってネオはこうして再びネブカドネザル号に乗れるだけ体も精神も回復させた。
常にそばにあった恋人の力も少なからずあったはずだ。「ネオを知る者が俺の意見に賛同してくれなければ、こう上手くはいかなかったはずだ」
語り続けるモーフィアスに、リンクは納得して頷く。
ネオが知らぬ間にこんなにも信奉者を増やしていたことは、リンクにも意外だった。
「ネオにはきっと皆を動かす力があるんだ。形だけの救世主じゃないってことなんだな」
あとがき??
普通のラブラブを書けなくてごめんなさい・・・・・。(所さんの『笑ってコラえて!』風)
普通でない話を書きたいと思ってしまう人間なもので。
2ヶ月も二人だけで始終べったり休養していたはずなんですが、そのあたりは思い切りはぶいてます。(汗)
しかし、リロを見るかぎり、ネオの信者達ってちょっと怖いですよね。