黒衣の天使


その人は、天からやってきた。
ふわりと地面に足をつけると、彼はサングラスを取りながら辺りを窺う。
そして、驚きに目を見張る車椅子の少年を見るなり、彼はにっこりと笑った。
「やぁ」

少年は、自分がひどく間抜けな顔をしているという自覚はあった。
空を飛ぶ人間なんて、この世に存在するはずはない。
だけれど、目の前にいる彼は、人にしか見えなかった。
全身黒一色の服で、黒いサングラス。
悪魔の化身かとも思ったが、彼の笑顔はそうしたものとは縁遠い。
ただ、ぽかんと口を開けて自分を凝視する少年に、黒衣の青年はもう一度声をかける。

「あの声、君を呼んでいるんじゃないのかな。出て行かなくていいの?」
彼らの耳には、確かに女性の声が届いている。
病院のリネン室と洗いざらしの包帯がなびく物干し台に隠れて、少年と青年の姿は、その女性からは見えていない。
彼女が必死に叫んでいる「エース」という名前は、おそらくこの車椅子の少年のものだろう。

「仲間とはぐれちゃったんだ。誰かが呼んでいると思ったんだけれど、僕じゃなかったようだね。君がエースなんだろ」
「あんまり大きな声をたてないでくれよ!」
自分を無視してしゃべり続ける彼に、少年は声を荒げる。
突然現れた彼の存在は確かに不可思議だ。
だが、常識的に考えれば、人間が空を飛んでやってくるはずがない。
少年は先ほど自分が目撃したものを何かの見間違いだと思うことにした。

 

「ああ、ごめん。えーと、君はかくれんぼしているの?」
「・・・あれは母さんだよ。僕に、歩く練習を強要するんだ」
辛そうに顔をゆがませる少年に、青年は車椅子にある足へと目線を移す。
「その足は?」
「事故でね。医者はもう治っているって言うんだけど、全く動かない役立たずな足さ」
はき捨てるように言う少年の目には、やり場の無い怒りがにじみ出ている。
「母さんは馬鹿だよ。一年もリハビリしてそれでも駄目だったのに、まだ信じてる。僕が歩けるようになるって。無理なのに、絶対歩けるようになんてならないのに!!」

急に大きくなった少年の声に驚いたのか、近くの木々から鳥の羽音が響いた。
大空を自由に翔ることのできる鳥。
少年には、地面を這うことしかできない自分を、あざ笑っているにさえ聞こえる。

 

 

「君はお母さんが好き?」
黒衣の青年は鳥の羽ばたく空を見上げたまま訊ねた。
「・・・なんだよ、突然」
「好きかい」
「母親を嫌いな子供なんて、いないよ」
低い声で呟く少年に、彼は安堵の笑みを浮かべる。
「それなら、お母さんの言葉を信じてあげたらいいんじゃないか」
よく分からない話の流れに、少年は顔を上げて青年を見やった。

「僕はね、一度死に掛けたことがある。でも、ある人が信じてくれていたんだ」
「信じる?」
「僕が死ぬはずがないって。その瞬間に、彼女がどれほど自分を思ってくれているか伝わってきて、目を開けなければならないと感じたんだ」
顔を引き締めて話していた彼は、ふいに、表情を緩める。
「何があっても絶対に自分を信じてくれている人がいる。そして、信じられる人がいる。それって結構凄いことだよ」

 

柔らかなその微笑みに、少年は目を奪われた。
彼の言う、信じている人。
その人のことを、彼はよほど大切に思っているのだろう。
そうでなければ、こんなにも澄んだ笑顔を見せれるはずがない。

「一人では無理でも、自分を信じて、一緒に頑張ってくれる人がそばにいればまだ戦えるさ。君の名前はエースだろ」
彼は少年を励ますようにして頭に手を置いた。
何故だろう。
会ったばかりなのに、青年の声は少年の心に響く。
諦めきっていたはずが、体にどんどん力が湧いてくる気がした。

 

 

「エース!」
甲高い声で呼ばれ、少年は後ろを振り向いた。
「朝から病室を抜け出したりして!!心配してたのよ」
少年を見つけて涙ぐむ母親の様子は尋常ではなかった。
世を儚んだ息子が、思い余って自殺をするのではないかと思っていたのだ。
抱きしめる母親の体は温かく、不安だったのは自分だけではなかったのだと、少年は思い知った。

「・・・あら、人の声がしたと思ったけど、一人なの?」
涙を拭きながら問う母親に、少年は慌てて傍らを見やる。
そこに、黒衣の青年の姿はなかった。
まるで煙のように姿を消してしまった青年だが、少年は別段驚かない。

「天使がいたんだよ」
「え?」
現実的な息子の、およそ非現実的な発言に、母親は目を丸くする。
戸惑う母親に向かい、少年は笑って言った。
「逃げたりして、ごめん。僕、リハビリを続けるよ。また母さんと一緒に公園を歩きたいから」


あとがき??
どんどんトリネオから離れていく・・・・・。僕だし。
奥底にあるのは、二人の愛なのですが。
エージェントに見つかったら、のんびり会話をしている時間などないですがね。
ネオが人目を気にせずビュンビュン空を飛んでいたからさ。


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