Beautiful Name


探偵事務所へと続く階段を上る益田の足取りは重い。
探偵である榎木津が全く動かないために、たまに仕事が入れば彼が足を棒のようにして歩きまわり、情報を仕入れなければならないのだ。
もう一人の助手(?)である寅吉は、事務所から離れられない。
いつ誰がやってくるのか分からないのだから留守番は必要で、榎木津が一人残っていても客の相手など出来るはずがなかった。

 

「あっ、ごくろうさんですー」
扉を開けて入ってきた益田を見ると、寅吉はすぐさま立ち上がって流し場へと向かう。
おそらく疲れて帰ってきた益田に茶を出すつもりだ。
荷物を下ろした益田が机の方を見ると、珍しく榎木津が起きてそこに座っていた。
そして、ソファーには学校帰りの美由紀がいたが、どうもいつもと様子が違う。
美由紀がいるときはしつこいくらいに話しかけている榎木津が、彼女と正反対の方向を見ているからだ。
困惑した益田が美由紀の方へと視線を移すと、彼女は顔をあげてにっこりと笑った。

「こんにちは、お疲れさまです」
「ああ、こんにちは。・・・・えーと」
榎木津の後ろ姿をちらりと見た益田は、美由紀にこそこそと小声で話しかける。
「何か、あったの?榎木津さん、機嫌悪いみたいだけど」
「私もよく分からないんです。昨日、拝み屋さんの妹さんがいらしたんですけど、彼女の話をしていたら急に黙り込んで」
「えっ、何で?」
「さあ」
どうも要領を得ない。
敦子は榎木津が気に入っている人間の一人で、彼女のせいで機嫌を損ねることなどないはずだ。
「じゃあ、榎木津さんが黙り込む前って、どんなこと話をしていた?」
刑事そのものといった口調で訊ねると、美由紀は腕組みをして考え始めた。

「えーと、敦子さんってとても綺麗な人ですよね。礼二郎さんも一緒にいると楽しそうですし」
「うん」
「だから、私、「敦子さんは礼二郎さんの恋人なんですよね」って訊いたんです」
「・・・・・えっ!」
「そうしたら、急に変な顔をして、あんな感じです」
益田は首を傾げる美由紀から視線を逸らすと、困ったように呟く。
「んー・・・、それは、美由紀ちゃんが悪いかも」

 

美由紀は自分が榎木津にとても好かれているという自覚が全くないのだ。
毎日のように口説かれているのだがまるで相手にせず、さらには敦子を榎木津の恋人扱いしたらしい。
想いを寄せる少女にそのようなことを訊ねられれば、確かにショックだ。

「あっ、私、そろそろ帰らないと。また来ますね」
立ち上がった美由紀は、榎木津にも聞こえるようにして大きな声で言う。
それでも、榎木津が振り返ることはなかった。
彼女の足音が遠ざかり、どうも気詰まりな益田は寅吉が運んできた茶を口に運ぶが、上体を動かした瞬間に何かが頬をかすめる。
ゆっくりと足下を見ると、榎木津の机の上にあったはずの分厚い辞書が落っこちていた。
当然、彼が益田の顔面めがけて投げたのだ。
角で叩けば人を殺せる厚さの辞書だった。

「あ、あ、危ないじゃないですか!!」
「当然だ、ぶつけようとしたんだから。生意気によけたりするんじゃない」
ぱくぱくと口を動かす益田に、椅子の向きを変えた榎木津がふてくされて言う。
「内緒話をするなど、100年早い。顔を近づけすぎだ」
「・・・・はあ」
また、いつもの焼き餅らしい。
益田は美由紀に特別な感情は持っていないが、彼女に他の男が近づくのはとことん嫌なようだ。

「あの、榎木津さんは毎日好き好き言っているから、逆に伝わらないんだと思いますよ。もっと、そういう言葉は大事にしないと・・・」
辞書を拾った益田は、それを榎木津の机まで持っていく。
頬杖をつく榎木津は愁いを帯びた表情で、見とれてしまうほど綺麗な横顔だ。
遠い眼差しの先にいる人物は、言わずとも分かる。
彼にこのような顔をさせるのはおそらく世界広しといえど、美由紀ただ一人なのだろう。

 

 

 

同じ頃、帰路に就く美由紀は榎木津に不興をかった理由を考えながら歩いていた。
美人で社会人として自立している敦子は同性の美由紀の目から見ても魅力的で、憧れてしまう。
だから榎木津の恋人ならば良いと思ったのだが、それを口に出して何故彼が怒るのか分からない。
さらには、益田に「美由紀ちゃんが悪いかも」などと言われてしまった。

「んー、何で?」
首を傾げて思案していると、急に肩を叩かれた。
「危ないわよ」
「えっ」
前を見ると、電信柱がすぐ目の前まで迫っている。
注意されず、もう2歩ばかり前に踏み出していれば、確実に激突していた。
「す、すみません・・・・あれ?」
「こんにちは、一日ぶりね」
重そうな鞄を肩からかけ、微笑んでいるのは昨日、探偵事務所で会った敦子だ。
Tシャツにジーンズと動きやすい服装で、その明るい笑顔には誰でも惹きつけられる。

「私は取材の帰りなんだけど、これから寮に戻るの?」
「あ、はい」
「ここに、随分と皺が寄っていたわよ。何を考えてたの?」
眉間を指で突きながら言われ、美由紀は恥ずかしそうに目線を下げた。
そうして美由紀の考え事、榎木津の機嫌が悪くなった事情を話すと、また同じことを言われたのだ。

 

「それは美由紀ちゃんが悪いかなぁ・・・・」
「ええっ、何でですか!!」
驚きの声をあげて訊ねると、逆に聞き返された。
「美由紀ちゃんは榎木津さんのこと、どう思ってる?」
「えっ、好きですよ。そうじゃないと、毎日事務所に行かないですし。宿題で分からないところがあると先生より優しく教えてくれるから、つい足を運んじゃいます」
「・・・・そう」
あっけらかんと答える美由紀を横目で見ながら、敦子は「榎木津さん、可哀相かもしれない・・・」と心から思った。
あれほど公然と「好き」と言われながら、美由紀は榎木津を家庭教師の代わりとしか見ていないようだ。
人の色恋に口を出すつもりはないが、敦子は少しだけ榎木津のフォローをしてみようかという気持ちになる。

「美由紀ちゃん、榎木津さんね、ちゃんと下の名前で呼んでいる人ってあなただけなのよ。私は敦っちゃん、雪絵さんは雪ちゃん、男の人だと短縮されたり、全然別の名前になっていたり。だから、榎木津さんにとってあなたは本当に特別なんだと思うわ。それに、私はあなたみたいに「好き」だなんて言われたことないもの」
「・・・・はあ」
気の抜けた返事をする美由紀に笑いかけると、敦子は枝分かれした道の右側を指さす。
「じゃあ、私、こっちだから。また」
「あっ、はい。さようなら」

駆けていく敦子の後ろ姿を眺めながら、美由紀は彼女の言ったことを頭の中で反芻した。
何だか、よく分からない。
「可愛い」や「好き」という言葉は榎木津の口からよく聞くが、他の女性達にも同じように言っているのだと思っていた。
あれだけ容姿端麗なのだから、皆、大喜びするはずだ。
だが、敦子の口振りだと、そうしたことはむやみやたらと言うタイプではないということだろうか。

 

「・・・・あれ、何だろう、これ」
赤くなった頬に手を当て、美由紀はなお一層悩みを深くする。
毎日「好き」と言われていたのに、今頃動揺するなど、変な感じだ。
自分に向けられる彼の笑顔を思い出すと、妙に落ち着かない。
明日からどのような顔で事務所に行けばいいのか、考えると何も手に付かなくなりそうだった。


あとがき??
榎木津さんが綺麗すぎるので、美由紀ちゃんも敦っちゃん同様、あんまり男として見ていなかったらしいです。
自分には釣り合わないと思って、最初から壁を作ってしまうのですね。
美由紀ちゃんがいろいろ気づいたらしいので、今後が楽しみです。
しかし、次があるとしたら、「女学生君」「探偵さん」に戻ると思います。こっちの呼び方の方が楽しいですね。
好き好き言われていたとは、美由紀ちゃん羨ましい。榎木津さんはお子供な性格なので、そのあたり素直。
今回の話はエノミユが絡まなかったので、欲求不満ですよ!!おおお・・・。(涙)
タイトルはゴダイゴって言っても、誰が分かるんだか。諸行無常でガンダーラ、ガンダーラ〜〜。


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